
正しい作品 松崎慊堂 一行書 紙本 朝鮮通信使応接 門人 渡辺崋山を救う
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正しい作品 松崎慊堂 一行書 紙本 朝鮮通信使応接 門人 渡辺崋山を救う
[正しい作品]:[松崎慊堂・一行書・紙本]/朝鮮通信使応接/門人・渡辺崋山を救う
本紙=縦1282×横284mm 紙本
極薄い小ヨレがありますが、概ね健全です。
松崎慊堂の正しい作品は極めて希です。貴重です。
松崎 慊堂
明和8年〈1771年〉- 天保15年〈1844年〉は、江戸時代後期の儒学者。諱は密または復。字は退蔵・明復。別号は益城・松下人。諡号を五経先生という。~~。
肥後国益城郡木倉村(現・熊本県上益城郡御船町)に生まれる。~~学問で身を立てるために13歳頃に国元から江戸に出奔し、浅草称念寺の寺主・玄門に養われ、1790年(寛政2年)昌平黌に入る。さらに林述斎の家塾で佐藤一斎らと学び1794年(寛政6年)に塾生領袖となる。述斎が当たっていた朝鮮通信使の応接は、慊堂が代行した。
1802年(享和2年)に掛川藩校教授となり、1811年(文化8年)には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行し、1815年(文化12年)に致仕。1822年(文政5年)から江戸目黒の羽沢・石経山房(木倉山房)に隠退して、塾生の指導と諸侯への講説にあたった。
蛮社の獄により捕らえられていた、門人・渡辺崋山の身を案じて1840年(天保10年)に病をおして建白書を草し、老中・水野忠邦に提出する。慊堂は建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の『慎機論』が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来政治誹謗の罪などは聖賢の世にあるべき道理がないということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし公にしない反古を証拠に罪を問うならば誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。この文書の迫力でまず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。他の門人として、塩谷宕陰・安井息軒などがいる。
文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから慊堂と同等の名声を維持することができたといわれた。狩谷斎らの町人学者と交遊し、はじめ朱子学を学んだがその空理性を嫌い、考証学を構築した。~~。
[本棚一]
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